それわた

それがわたしにとってなんだというのでしょう、な雲吐き女のつれづれ

一生かわいいって言われてえ

 女性ってなんでこんなに顔で人生左右されるんですかね。中世ヨーロッパの名残?じゃあ日本の平安時代引きずってきて暗がりでインスタ映える顔を良しとしろよいっそ。と言っても地黒なので結局”らうたし”にはカテゴライズされないわけですけれどもね。

 生まれた時から知ってる。わたしの顔は可もなく不可もなく、普通です。不細工だと言われたこともなければかわいいねと褒められることもない、アラのない顔です。奥二重、歯並びは矯正済み、手足は長く肩幅は広く、一長一短のこの体。

 21を過ぎたあたりから、他人の容貌と自分のものを比べるようになった。あの子は肌が綺麗。あの人はきれいな二重。あいつはまつげが長くて指が細い。24時間365日自分にないものばかりねだってしまうのは正直辛い。だって生活している限り否が応でも他人を視界に入れるわけでしょう。今もつらいけれど、これを自分が老いてゆく過程でやり続けるのかと思うともっとしんどい。加齢を止めることはできないし、それによって磨き上げられるような光輝くお顔ではない。

 これに歯止めをかけるものは何か。そう、自分でできないことはアウトソーシングですよ皆さん。自己肯定できなければ、他人に肯定してもらえばいいじゃない。そこで恋人や伴侶が重要なわけです。

 今日もお客さまご夫婦で、奥様が何を着ても「かわいいよ!似合ってる」を連呼する旦那様を見てうらやましく思うなどしました。こういう夫婦って絶対二人とも社会における見た目ヒエラルキー圏外みたいなひとなんだよな。謎です。自分も相手もヒエラルキー外で、そもそも容姿に関する認識が相対的でなくて絶対的だからこそ成せる業なんだろうけど、わたしは絶対的にも相対的にも褒められたい。心から誉めそやしてほしい。こういう時、他人から水をくみ上げるのではなく自分の中に水を湛える泉を育てていたかったなと思う。自己肯定力の低さは生きづらさと直列回路だということを認識させられますね。いい加減多数の人間の中に水たまりを作って回るのをやめたい。

 自分のことを鏡で見つめる時間、地球上の美しさのものさしのことを思う。寝て起きたら二重の巨乳になっていますように。