それわた

それがわたしにとってなんだというのでしょう、な雲吐き女のつれづれ

日々すれ違う人生

 わたしがだいすきな映画「勝手にふるえてろ」は、その魅力に取り憑かれた方々が編纂したファンブックがある。「絶滅したドードー鳥編」と名付けられたその本には、「国外逃亡、紫谷玲奈」という短編(といいつつ1万字におよぶ)小説が載っている。

 知らないところで主人公・ヨシカに名を騙って同窓会を開かれ、スペイン風邪で欠席ということにされた紫谷玲奈。本編には登場しなかった彼女がもし、そのことを知ったら?というのがこの小説のストーリーである。
 本編に出てくるのは顔写真と、途中でアメリカへ引っ越したという事実だけ。その情報から、この本を企画した伊藤聡さんがほぼ一から紡ぎ出した物語を読んでわたしはめちゃくちゃ腑に落ちたのだ。小説の"脇役“と言われる存在にも生活があるように、わたしにも生活があって、そしてわたしと一瞬人生を交錯させたひとにも生活がある。
 Instagramで、急にフォローしてきた高校の同級生。中学生の時に「いじめられていた」と話す、紅白アイドルになったクラスメイト。登下校を共にしていた小学校の幼なじみ。今やInstagramは、そういった縁を擦れ合わせた人たちの日常を盗み見るツールになっている。「知り合いですか?」と聞かれる、一方的に記憶に残っている人の結婚指輪のブランドまで知っていますが、怖すぎない現代????
 なぜこんなことをつらつら考えているかというと、わたしが転校しまくり人生だからです。幼少中2つずつ通っているわたしの縁の擦れ合わせ方って言ったら半端ないのだ。就活のグループディスカッション終わったあとに名前を呼ばれて呼び止められ、「僕中学の同級生なんですけど憶えてますか?」と聞かれ、妹のクラスメイトの兄と判明したときのわたしの顔よ。本当に全然全然記憶の端にも棒にもかかってないひとが、わたしのことを知っているというケースがあまりにも多すぎる。
 わたしの人生の脇役と化しているひと、一方的に記憶しているひとがいるように、わたしを脇役としているひと、そして「あいつ変なヤツだったな」といつまでも記憶に残っているひとがいるのかと思いを馳せる。いつかまた人生がすれ違う日が来たらおもしろいのになと思う。成人式の先でも、定期的にそういうイベントがあればいいのにな。