それわた

それがわたしにとってなんだというのでしょう、な雲吐き女のつれづれ

交響曲第5番

 運命、ってやつを、まだ信じている。

 もう25歳になった。四半世紀生きてきて、妥協を覚えられないでいる。すきなものは、ほしい。服やアクセサリーだけでなく、すきになってしまったひとを、諦められない。

 去年の6月ごろから漠然と「一人暮らしってやつがしたい」と考え始め、家を探すサイトを見るようになった。それまでは興味がなかった(というより縁がなかった)けれど、探してみると家というものに対し、わたしはこだわりが強いほうのようだった。自炊したいから二口コンロは死守したいし、ストーカー気質のひとに好かれやすいのでセキュリティはしっかりしていてほしいし、化粧をするのがすきだから洗面台には独立していてほしいし、今の家より遠い家にわざわざ住みたくない。

 そうして、お友達が住んでいる家の家賃くらいのお値段で探してみると、バストイレ別だけど脱衣所がなかったり、部屋はすっごくきれいだけど外見はおんぼろだったり、どうしても妥協せざるをえない部分が出てくる。でも、どの条件も妥協できない。わたしはわたしが住みたいと思う、自分にぴったり合った運命の家がどこかにあると思っている。

 これまですきになったひとはおおむねわたしのことを好いてくれ、あまつさえ恋人になってくれた。運よく自分のことをすきな相手のことをすきになれただけに過ぎないかもしれないが、すきなひとが自分のことをすきな人生は、しあわせだった。

 

 すきなひとができた。このブログの頻出単語、北村匠海さんだ。最初は自分のペースで応援していたけれど、段々ライブやイベント、グッズはできる限り手に入れたくなった。それと同時期に、現世でもすきなひとができた。本名も知らないそのひとは、どことなく雰囲気が北村さんに似ていて博識でかわいい、有り体に言えば「モテ男」だと思う(実生活や人生を知らないので推測でしかないが、あのお顔であの性格ならめちゃくちゃにモテると思う)。

 彼は今までの「すきなひと」たちと違い、わたしのことをすきじゃない。口では「すきだよ」と言われても、目が、指が、言葉がまとう熱が違う。わたしをほしい、と思っていないのがわかる。だって、彼はわたしをもう手に入れていることを知っている。知っていて、もてあそんでいるのがわかる。今までのわたしがそうだったから。

 今まで、ほしいものは大体手に入れてきた。ライブのチケットも、大学も、恋人も。諦めずにほしいと言い続けて、言葉の通りに勝ち取ってきた。でも今回ばかりは、彼はわたしの隣に座ってくれないかもしれない。でも諦めることはできない。すきになってしまったから、ほしくなってしまった。

 今までわたしが諦めずに歩んでくることができたのは、わたしがほしいものを必ず手に入れられる人生で、それが運命だと信じていたから。その証拠に、最終的に諦めたものはたいしてほしくなかったし、ほしいものはなくしてもすれ違っても必ず最後にわたしのもとに戻ってきた。

 そう信じきっているわたしに、25年生きてきた記念品として神さまが彼と出会わせたとしたら、なんて意地悪なんだろう。心からほしいと思ったものが、生まれて初めて手に入らないかもしれない。書いていて泣きそう。

 

 でも一方で、手に入れたものへの熱が一瞬にして冷め、手放してしまう自分がいることも知っているから、今はその瞬間が一刻も早く訪れることを願ってやまない。ほしいものを手に入れられないわたしなんて、わたしじゃないのだから。